Thursday 1 December 2011

Sonic Boom

超音速飛行によって生じる衝撃波で起こる大音響、ソニックブーム。
それは自然か、人工か。
人間が生み出したテクノロジーによってのみ可視化される自然は、
「超自然」という言葉がしっくりくる。

Wednesday 9 November 2011

ポストモダニズム展 in V&A Museum

先週、V&A博物館で行われているポストモダニズム展に行ってきた。V&Aは二つ前の記事で少し書いたヴィクトリア女王とアルバート公のVictoria and Albertで、ヴィクトリア女王の死後、旧サウスケンジントン博物館からこの名前に変更されたらしいが、それは文化と歴史の頽廃期に芸術を嗜好しその成熟を援助した二人の君主に敬意を払ったからに違いない。大英博物館と同スケールの建物に展示されているのは、学生達がスケッチしているのをよく見るギリシャの彫刻から現代テクノロジーの集合知といえるようなガラス細工のシャンデリアまで広範にわたるが、元々1851年に行われたロンドン万国博覧会の利益で建設されたこともあり、万博以降に造られたヴィクトリア朝のものが多い。

国内に点在する巨大博物館の例にならってこの博物館も入場無料で、建設された当時もペニーレスな若きクリエーター達にデザインの重要性を啓蒙する目的で無料だったという。中世から欧米に連綿と受け継がれているこの富裕層のパトロン的、啓蒙的精神が今日までアート業界を牽引する力の根底になっていると考えるのは恣意的な妄想ではないはずだ。その資金が帝国主義的植民地支配における他国からの搾取によってもたらされたのは事実だが、彼らを一重に避難できないのはその用途が日本の富裕層達とくにニューリッチ達とは違い文化援助の場、つまりプラットフォームを造ることに向けられたからだ。日本にも精神科医でありながら現代アートコレクターの高橋龍太郎先生のように富を文化援助に還元できる富裕層が現れるのを期待したい。

と、ぼやきはここまで、本題のポストモダニズム展について。ポストモダニズムとは既存の自然、伝統、様式、正当性に疑問を投げかける批評的態度で、その根底には構築主義と反基盤主義がある。構築主義とは、一般に「☆☆☆(たとえば自然)」と看做されていることは普遍的、絶対的なものではなく、社会や文化の習慣の中で形成されたものであるという指摘、そしてそのフィクションの批判である。反基盤主義は一般的に「☆☆☆(たとえば正当)」と看做されているものはなにか絶対的で根源的な基盤に言及することで成立しているが、その基盤は抽象的な措定でしかなく、常に構築されているため、基盤への言及はその正当性を担保しないという主張である。それに抗う手段としての、「☆☆☆」に対してミイラ取りに行って故意的にミイラになるような形で「☆☆☆」の自然化、正当化にいたる様相をあぶり出す、パロディはポストモダニズムの特徴的な方法論で、やはりそれは批評的な営為である。


今回、気になったアーティストを淡々と音速光速で紹介。各々の詳細は後日、書ける時に。

まず、入ってすぐの所にあったのが、横尾忠則が描いた舞踏家、土方巽の公演ポスター。写真だと分かりにくいが左上には澁澤龍彦の写真があり、その横には「澁澤さん家のほうへ」と添えられている。
隣にあったのが、同公演のコレクション展示即売会ポスターで、オリジナルを踏襲してあるのが分かる。しかも、中央に加えられている毛筆は三島由紀夫によって描かれたものであるというから、驚くしかない。横尾忠則、土方巽、澁澤龍彦、三島由紀夫と名前を見ただけでもよだれが出てくるくらい、豪華キャスト。この当時の文化人界隈の分野を跨いだ交友関係に憧憬しないではいられない。
ポストモダンで比較的理解しやすい建築では、Ilya UtkinとAlexander Brodskyという二人のロシア人建築家が興味深かった。彼らは建築家であるにもかかわらず、この世にあり得ない建築、夢想的で再現不可能な建築デザインを紙の上で描き続けた。この二人には強く惹かれるものがあるので、是非詳しく調べたい。
このおそらくアールヌーボーの流れを受け継いでいるであろうティーセットはPaolo Portoghesiというアーティストの作品で、その算出された様式美を見れば、彼の本業が建築であることに驚きはしない。
大野一雄はこのポストモダン展で知った舞踏家。土方巽とパフォーマンスが似てるなと思ったのは間違いではなくて、暗黒舞踏で競演をしていたり、とかなり影響を受けている模様。今回一番見入ったのはこの動画。
音楽におけるポストモダンも相当な強者で犇めいていた。まず、Grace Jones。ミュージックビデオが流れてて、本人が着用した衣装もいくつか。Grace Jonesは東京にある某セレクトショップの元店員さんに教えてもらったのが始まりで、ヴィジュアルも音楽も目眩なしには成り立たない程刺激的。
そして冒頭にある動画の男色ソプラノ歌手Klaus Nomi。この衣装も実物が展示してあって、プラスチック的な硬化な素材と思っていたのは実際、比較的軟らかそうな素材だった。 会場では『Lightning Strikes』のミュージックビデオがリピートされていた。

Friday 4 November 2011

毛に傾倒。

前回の記事からの延長、髪界隈のイメージ群。
無造作に列挙してみると、
髪は畏怖であり笑いであることがよくわかる。















Wednesday 26 October 2011

モーニングジュエリーからCharlie Le Minduまで

対立し合うものは調和する。光が眩しければまぶしい程、陰もよりその深みを増していく。ヴィクトリア朝はその光と陰が調和した時代であった。産業革命、植民地支配により経済は興隆し、科学は躍進の時を迎え、西の王室を中心に貴族やブルジョア階級の生活は豪奢を極めるその一方で、イーストエンドは貧困、失業に苦しむ低所得層に溢れ、それに伴う犯罪が横行した。1888年にホワイトチャペル近辺で5人の娼婦を殺害した神秘の猟奇殺人犯、「切り裂きジャック」ことJack The Ripperはその典型だ。この当時のロンドンは一日一件の殺人事件があったという。栄誉栄華の光は道徳的、倫理的な陰だけでは者足りず、身体的な陰も生み出したらしく、ヴィクトリア時代のロンドンは工業地帯からのスモッグ(これが「霧の都ロンドン」)、コレラや結核などの伝染病が萬延し、1851年の平均寿命はほんの40歳であった。現在と比べてヴィクトリア時代の人々にとって死がとても身近な現象であったことは想像するに難くない。

アラスカに住むエスキモーが雪に関する言葉を多く持つように、死の増加に伴ってそれを弔う方法やオマージュに多様性が出るのも当然で、死体に化粧を施し、正装させて撮ったポストモーテムフォトグラフィーもカメラの発達とともに流行した。そして、もうひとつ喪に服する人々の装飾美への欲求と死者への弔いとを兼ね備えたヴィクトリア時代に独特のモーニングジュエリーがある。

モーニングジュエリーのモーニングはmorning 「朝」ではなく、mouring「喪」の意味で、服喪中、葬儀の間に着用するこのロマンチックでオカルトチックなジュエリーは17世紀に起こった宗教戦争で流れた血の産物であった。素材には流木が化石化した漆黒のジェットやボヴォークが好んで使われたようだ。色合いの強い宝石は喪服と調和しないため、モーニングジュエリーは黒いものがほとんどで日本でよく喪服に合わせる真珠がダイヤモンドとともにモーニングジュエリーとして認められたのは19世紀末である。
ヴィクトリア時代のモーニングジュエリームーブメントにはその名前にもなった当時のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の女王に君臨したヴィクトリアが関係している。1861年にヴィクトリア女王の最愛の夫アルバート公が死去し、深く喪に服したヴィクトリア女王はそれ以後、生涯を全て喪服で過ごした。世界で初めて純白のウェディングドレス着た人物がその結婚相手の死を受けて全身を黒で覆うとは、ピーター・グリーナウェイさながらの色演出である。当時の王族や貴族の服装は大衆の憧れで、ファッションリーダーの役割を担っており、ヴィクトリア女王の喪服も例にもれず喪服、モーニングジュエリー産業は成熟期に向かい、国中が黒く染まっていった。それがヴィクトリア時代の建前を重んじる社会風潮からの反感、指弾を避けるために生まれた偽善だったとしても、この人類の歴史に打ち込まれた一黒点、イギリス国家黒化の様相は神秘的、黒魔術的で現在までその魅力を失わない。

その数あるモーニングジュエリーの中で最も怪しいく呪術的なものが、エナメルで加工した死者の遺髪をペンダントやネックレスに入れた、ヘアージュエリーである。一般的に髪はその人間と緊密な関係を持っていているとされ、古今東西様々な象徴として解釈されている。まず、髪は神秘的な能力、魔力の象徴とされている。古代の人々は女性(つまり魔女)が魔力を発揮するのには髪が必要だと信じ、キリスト教の尼僧やユダヤ教の女性は髪を剃って無害であることを証明しなければならなかったらしい。髪=魔力の等式は魔女狩りが頻繁に行われた中世まで尾を引いたようで、キリスト教の異端審問官は魔女の容疑者は髪を剃ってから拷問にかけるべきであると主張した。澁澤龍彦も『黒魔術の手帖』の中で髪が愛の呪い(惚れた相手を落とすための、また一般に性と関係がある呪法)の材料になるという指摘を、中世の人々が櫛についた髪を妖術使の手に渡らないように注意深く取り除いていたことや、自分と好意を寄せている相手の髪を結べば恋が成就すると信じていたことを例にとってしている。また澁澤龍彦は、「人間の身体の中で急な成長をとげる髪や爪は、人間の個体とは別な、独立した寄生物のようなものと考えられる傾向があり、そのことが、何か無気味な感じを呼び起こす原因ともなるのであろう。」と言及している。キリスト教社会であった中世ヨーロッパで異教の髪重視信仰から端を発した迷信が人々を翻弄していたとははなはだアイロニックに見えるが、キリスト教のカウンターとして異教の魔術的な行為や思想が同時期に広がるのは必然であるように思う。対立し合うものは調和する。

ジプシーの魔女は恋人に捨てられた者に対して愛する人の髪を数本取って、指輪かロケットに入れて保持するように薦めた。髪を持っていることでその人間の魂に影響を及ぼすことができるとされていた為らしいが、その呪術的な信仰はヴィクトリア時代のヘアージュエリーにまで連綿と続いていたようだ。産業技術の躍進と女王の亡き夫へのオマージュが交錯して産まれたこの数奇でオカルトチックなモーニングジュエリーは爛熟と頽廃、科学的楽天主義とペシミズムを孕んだヴィクトリア時代の生んだメメントである。

ヴィクトリア時代が幕を閉じてから一世紀以上の時を隔てて、はさみを片手に21世紀のファッション業界に切り込んでいった新進気鋭のデザイナー、Charlie le Mindu(チャーリー・ル・ミンドゥ)は髪をファッションショーの舞台に持ち込んだ。他のデザイナーが綿やシルクを使う様にチャーリーは髪を縦横無尽に扱い、ことによれば中世の妖術使も嫌悪感を抱くかもしれない程の髪に覆われた装飾美を造り上げる。モーニングジュエリーが遺髪を使うのに対し、チャーリーの使う髪は稼業(?)のヘアスタイリスト経由の精力に満ち満ちたもので、それを纏ったモデルに黒魔術的な威圧を付与する。
ヴィクトリア時代中葉にも週刊誌の紙面上で人々の注目を浴びた理髪師が存在した。殺人床屋スウィニー・トッドである。しかし、トッドは紙面にしか登場しない。トッドは大衆作家トマス・ベケット・プレストが週刊誌で連載した長編小説に登場する人物だった。しかも、当初はまったくの脇役だったというからジョニー・デップも驚きである。その後、奇怪な猟奇殺人鬼のトッドは人気を博してメロドラマをホラー仕立ての怪奇小説にシフトさせてしまったというから、建前社会で倫理、道徳を遵守して人間の原始的な欲望を抑圧されたヴィクトリアの人々が背徳的な暴力や犯罪に飢えていたのは間違いなさそうだ。

スウィニー・トッドとチャーリー・ル・ミンドゥ、ヴィクトリア時代と現代がそれぞれ照応するとは言わないにしても、チャーリーの髪を使ったコレクションも今年起きたロンドン暴動の前触れで無かったとは言いきれない。