Saturday 12 May 2012

タイタニック3D in Electric Cinema


4月15日にNotting Hill Gate(ノッティングヒルゲート)から歩いてPortbello Road(ポートベロウロード)の端にあるElectric Cinemaで「Titanic 3D」を観て来た。元々好きだったアンティークからの延長で17、8、9世紀の装飾やインテリア等にも懐古主義的な憧憬が膨らんでいた時にタイミングよく上映し始めたのだが、それでも旋毛が曲がっている僕の定番、王道への反逆体制が邪魔をして行くのを躊躇っていた。が、その体制をナポレオンの如く革命的に転覆させる事情があった。というのも、この日からちょうど100年前の1912年の4月15日にタイタニックは大西洋の海底に沈んでいるのだ。それに加えて、Electric Cinemaは沈没より一年前の1911年に建てられ、内装は改装をしてはいるにしろ、そのディテールからヴィクトリアンの微香を感じられる、「タイタニック」を鑑賞するにはうってつけの映画館だったのだ。
Electric Cinemaの館内は映画館特有の傾斜があまりなくフラットで広々としている。天井はアーチを描いていて、白を基調にした壁に深紅の模様が上品だ。席は最前列から最後列まで革張りのリクライニングチェアで統一、おまけに足のせ台まで完備されている。つまり足を惜しみなく伸ばして存分に寛いでくださいという仕様になっていて、それではと、ふかふかの椅子に沈む様にして座った。(予告も合わせて)4時間近く座ってもまだまだ身体の余裕を感じられるほどに快適。


映画そのものは思っていたよりラブストーリー色は希薄で、造船の責任者やキャプテン、船底で汗を流すボイラー部員の視座をもって巨大客船の沈没を追体験できるようになっていて、その切り替えが慌ただしいくもあったが、沈没するのと相まって脳内に丁度よい混乱を引き起こしてくれる。期待していた船内の贅を尽くした内装や一等船客の衣装は、コマーシャリズムさまさま、再現度が高く感嘆しきり。 印象に残っているのは、ロミオとジュリエットがお手本の、階級の格差や障害を乗り越えて結ばれるというテンプレ化した恋物語ではなく、タイタニック号が沈没していく間の人々の行動で、責任を感じ操舵室に残こった船のキャプテン、混乱の中で人々を落ち着かせようと最後の最後まで演奏をやめなかった音楽家達、己のダンディズムを貫き死を待ち構えた紳士、なんかはそれだけで別の話が成り立つ程のドラマ性を感じた。気になって調べてみると、この映画には実在した何人もの人物が登場しており、彼らの末期は生存者の証言を基に決定されているという。以下、興味深い乗客を抜粋した。


トーマス・アンドリューズ(造船家)
アイルランド出身で父親は枢密院のメンバーというエリートの家系に生まれ、弟は北アイルランドの首相にもなっている。ベルファスト王立アカデミーを卒業後、ハーランド・アンド・ウルフ社で働き始める。アンドリューズは、社内でも造船所の従業員の間でも、よく好かれていた。1907年から、オリンピック号とその姉妹船タイタニック号の設計監督に就任する。アンドリューズは会社を代表して、建設した船の処女航海に同行しており、タイタニック号もその例外ではなく、1912年4月14日に出発地ベルファストから乗船し、友人に「タイタニック号は人類が作り上げてたものとしては、ほぼ完璧に近い」と伝えている。4月14日の午後11:40分、タイタニック号は氷山に衝突した。アンドリューズは破損状態を確認すると、タイタニック号は沈没の運命にあることを確信する。沈没までに時間がないこと、救命ボートの数が乗客乗員の数に満たないことを把握していたアンドリューズは、避難が始まると嫌がる人々をせきたて、できるだけ詰めて救命ボートに乗るよう指示した。船の乗客係ジョン・スチュワートによれば、アンドリューズが最後に目撃されたとき、彼は一等船室喫煙室の暖炉の上の絵『プリマス港』をじっと見ていたという。タイタニック号はその帰途でプリマスに寄港することになっていた。



マーガレット・ブラウン
1867年、アメリカ、ミズーリ州で四人兄妹の長女として生まれる。家が貧しいこともあり、お金持ちと結婚したがっていたが、18歳で移り住んだコロラド州リードヴィルでジェイムズと出会い、結婚する。
「お金持ちと結婚したかったけれど、私はジム・ブラウンを愛しました。私は父を楽にさせてやりたかったし、疲れて年老いた父にしてやりたかったことをかなえてくれる男性が現れるまでは、ずっと独身でいようと決心していました。ジムは私たちと同じくらい貧乏だったし、チャンスに恵まれた人生を送っていたわけではありません。私はその頃、激しく葛藤していました。私はジムを愛していたけれど、彼は貧しかったのです。最終的に私は、富で自分を惹きつける男性とではなく、貧しくても愛する男性と過ごすほうが幸せだという考えに至りました。だから私はジム・ブラウンと結婚したのです。」とジェイムズについて語っている。
その後、ジェイムズが独学で励んでいた鉱山工学の技術が実を結び、一家は莫大な富を手に入れる。マーガレットは華やかな社交界にも順応し、芸術に没頭、フランス語、ドイツ語、ロシア語にも堪能になった。1909年にはアメリカ合衆国上院にも立候補している。だが23年の 結婚生活の後、別居同意に達し、別々の道を歩むことを決意する。2人が和解することはなかったが離婚はせず、生涯を通じてお互いを気遣った。マーガレットは一等船客としてタイタニック号に乗るが、1912年4月15日、氷山に衝突して沈没。混乱の中、他の乗客が救命ボートに乗り込むのを助けていたが、最終的に救命ボート6号に乗って船を離れることを承諾する。沈没後、救命ボートを指示し乗組員長の反対を押し切り、水中の生存者を探し出すために戻った。カルパチア号に救助、収監された祭も、女性乗客の間でリーダーシップを発揮した。タイタニック号生存者の名声を労働者と女性の権利、子どもの教育や歴史保存といった多岐に渡る問題の推進するのに役立てた。

エディス・C・エヴァンズ
1875年、ペンシルベニア州フィラデルフィアで裕福な家庭に生まれる。イングランドで行われた一族の葬儀に出席した帰り、1912年4月10日からシェルブール港からタイタニック号に乗船した。彼女には一等船室のA-29号を割り当てられた。独り身で旅をしていたエヴァンズには付き合いの男性がいなかったが、同じく一等船客で戦史研究かとして知られていたアーチボルト・グレーシー大佐は、同等の立場にあった他の四人の女性とエヴァンズに対して、船内で彼女たちへのエスコートを申し出ていた。事故発生後、グレーシーはエヴァンズともう一人の女性キャロライン・ブラウンを救命ボート付近まで送り届けた。2人は一度救命ボートに乗り損ね、もう一隻の救命ボートD号は、エヴァンズとブラウンの両方を乗せる余裕がなかった。エヴァンズは渋るブラウンに何度も「家でお子さんたちが待っているのだから、先にお行きなさい」と勧めた。救命ボートD号は、エヴァンズを船上に残したまま離船した。


ベンジャミン・グッゲンハイム
1865年、ユダヤ系ドイツ人の実業家、マイヤー・グッゲンハイムの家に10人兄妹の6番目の子として生まれた。タイタニック号には、一等船客として主ルブールから乗船。付添人のヴィクター・ギグリオ、運転手のルネ・ペルノ、愛人のフランス人歌手マダム・アウベルトと彼女のメイドを務めていたエマが彼に同行した。氷山衝突後、グッゲンハイムとギグリオは、マダム・アウペルトとエマを救命ボートに連れて行った。2人が渋々救命ボート9号に乗り込んだ後、グッゲンハイムはエマにドイツ語で「またすぐに逢えるさ、ちょうど修理中なのだから。明日にはタイタニック号はまた動くだろう」と言って2人も見送った。事の深刻さを悟っていたグッケンハイムは、1時20分頃には救命胴衣を脱ぎ、夜会服に正装してギグリオ及びその他2人の船客と一緒に一等船客休憩室に現れた。グッゲンハイムは、「最上の服装に着替えてきた。これで紳士に相応しく沈んでいく準備は整った」と発言したという。グッゲンハイムとギグリオが最後に目撃されたとき、デッキチェアに腰掛けた2人はブランデーグラスを傾け、葉巻をくゆらせていた。


エドワード・ジョン・スミス
1850年、イングランド中部のハンリーで陶芸家の父エドワードと母キャサリンとの間に生まれる。若い時期から海運の会社で働き、瞬く間に昇進を重ねていった。それにつれ、乗客や乗組員から穏やかで華麗だという評価を得るようになる。またイギリスの上流階級から、自分たちの乗る船の船長をスミスにするよう普段から要求があったことから、「大富豪たちの船長」として讃えられるようになった。スミスは葉巻とその煙を愛しており、葉巻の煙が作る輪を乱されたくなかったため、葉巻を吸っている間は書斎に誰も入れさせなかったという。世界で最も経験豊かな船長の一人として名声を築き、1912年タイタニック号の船長に任命される。新聞社には「会社がより大きく、より豪華な汽船を完成させ」たあかつきには引退をすることを伝えていた。氷山衝突の後、船内に浸水が進む中、操舵室にいるスミスを見たという証言がある。